20110327萩山神社獅子舞

3月11日、東日本大震災、そして続いて長野県北部の栄村での大地震が発生。日本全国が自粛ムードの中で、僕が住む地元ではいつもより内容を縮小して春祭りが開催された。
実は、僕自身は今年から参加。前回の萩山神社御柱祭りに参加したことをきっかけに地元の方々から誘って頂いた。

普通獅子舞というと、2人くらいで一人は獅子の頭、もう一人はそのサポート、というイメージが多いと思うが、この南信州では「屋台獅子」と呼ばれる、幌の中が獅子頭のメンバーと囃子のメンバーが入る屋台に分かれている大きな物(大きい物では20mくらいの長さがあるものもある)である。この南信州で多い「屋台獅子」のスタイルは、高森町にある瑠璃寺が源流と言われている。




天台宗 瑠璃寺/信州 瑠璃の里

天台宗 大嶋山 瑠璃寺


 萩山神社の獅子舞は平成7年まで使用していた獅子頭の裏側に寛政と読めそうな墨書等があることなどから、200年以上の歴史があると言われている。また萩山神社の獅子舞の大きな特徴は、「獅子曳き(ししひき)」と呼ばれる三人の子どもたちが獅子を操る「舞い」があること。獅子舞が開始された当初はこの獅子曳きは無く、明治35年〜36年くらいから始まったと言われている。
 この獅子曳きは、松王・梅王・桜丸と呼ばれる3人の忠義に厚い男の子たちが、獅子頭(これは主君の仇を表現している)を討ち倒す、という話を表現している。
ではどんな話なのか?
 時は平安時代、醍醐天皇の時代に学問の神様と呼ばれる菅原道真が右大臣のときに、左大臣藤原時平の妬みを受け、九州へ左遷させられる。そこで道真公に使えていた白太夫の3人の子どもが、「主君の仇は時平なり」と力を合わせて仇討ちのチャンスを伺っていた。そんなときに時平が吉田神社に参詣するとの情報が入り、その帰りを待ち伏せして、まずは梅王そして桜丸が切りかかるが倒せず、そして松王の出番となり、3人力を合わせて見事本懐を遂げる。
これは歌舞伎芝居の「菅原伝授手習鑑」の「車引きの場」で演じられる場面で、この萩山神社では仇の時平を「獅子頭」として表現されている。これは昔から芝居好きの人が多い土地柄を反映したものと言われている。
 僕自身は今回あまり練習に参加できなかったため頭の横について幌を操作する係だけだったが、最後は本当にびっくり。なんとせっかく組み立てた屋台をぶっこわし始めるのだ。これは仇討ちが済んで獅子が倒されることを表現しているのだ。
 今回は自粛という中で、だいぶ縮小して祭りを開催したが安養寺の住職からはこんな言葉を頂いた。
「こういうときこそ、お祭りが大事。もともとは家内安全、無病息災、五穀豊穣を願うもの。だからこそ開催することに意義があることだし、この際にもう一度地域のお祭の意味を考えてほしい。」
 何か物事が始まるときには、その後ろには必ず目的や背景がある。もちろんやり方や手法時代は時代によって変わっていくことは当たり前の事だ。でも始まった背景や目的は長い年月の中で見失いやすい。時代の中で変わっていくこと、そして変わったり忘れてはいけないこと、物事の本質というのは忘れてはいけないなあ、と改めて実感。

<参考文献>
高森町役場WEB「下市田の獅子舞」 http://www.town.takamori.nagano.jp/contents/08000079.html
「獅子曳きの由来について」昭和57年 萩翁調(はぎおきなしらべ)より
文化デジタルライブラリー「菅原伝授手習鑑」 http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/000.html

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